| 少年野球チーム、「角筈若葉」が生まれ育まれてきた場所は当時でいう淀橋地区の「角筈」というところであった。そう今でいう「西新宿」の前身である地域であった。今や高層ビルが林立し、東京の象徴でもある新都庁が威風堂々たる景観を見せている新宿新都心。
新宿新都心計画が議決されたのは昭和35年のことであるが、用地は新宿駅西口の約56ヘクタールに及ぶ淀橋浄水場の跡地であった。「淀橋浄水場」は明治32年に完成。その後人々の生活を支えてきた淀橋浄水場も昭和40年3月31日にその歴史の幕を下ろす事になった。
その後はその跡地を「4号地野球場」として少年野球や大人の野球場としても利用され、当時の新宿区軟式少年野球連盟の大会や開会式もその4号地で開催された。新宿区の少年野球チームは100チームを下らなかったそうだ。
そしてその後、昭和46年には新宿初の超高層ビル「京王プラザホテル」が完成した。当時、その京王プラザを横に白球を追いかけていた記憶が蘇る。
淀橋地区の一角の「角筈」。今でも「角筈」という名称は随所で残されているものの浅田次郎氏原作の映画「鉄道屋(ポッポ屋)〜角筈にて」での角筈は当時西口界隈から歌舞伎町までを指していた。
その角筈。住所表記では「角筈」の名はなくなってしまっているが、「角筈二丁目」バス停留所は現存する。甲州街道沿い、CITIBANKの近く「江戸そば」の前に、手書きの墨文字で書かれた昔風の丸いバス停の標識が立っている。「角筈」とは西新宿の一角、<山手線/甲州街道/山手通り/都庁に囲まれたエリア>を指すと考える人も多いだろうが、昔の「角筈」は先ほど記述したようにもっと広い地域を意味していた。昔の葉書宛名に「東京府下豊玉郡内藤新宿字角筈」というものがある。この住居表示の頃の角筈は内藤新宿の一部となっている。
モノの本によれば明治時代には歌舞伎町までを含む広い地域が「大字角筈」と呼ばれ、昭和の初め板橋区がうまれたとき、それが「角筈/淀橋/十二社」に別れたという。1970年代には西新宿の大変革時代で、柏木、角筈、百人町の一部を再統合して「西新宿〇丁目」という呼称を与えられ、昭和46年に京王プラザが建てられ高層ビルの建築ラッシュが始まった。それが「滅びゆく角筈」という嘆声を生んだ。
また「名所江戸百景」に「角筈熊野十二社」という絵画がある。
江戸時代、十二社は鬱蒼とした森に囲まれ、熊野神社境内には長さ4メートルほどの滝があり、落ちた水が渓流となって流れていた。
明治以降は大きな料亭も造られ、最盛期には料亭や茶屋が約100軒、ボート、屋形船、釣り、花火などの娯楽も盛んに行われた。
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