第三章 若葉時代 〜 そして西新宿ヤンキース HOMEへ

 

 平成9年1月に自分の息子が身長が大きい、という理由だけで若葉に勧誘され入部。自分は小中高とサッカー筋だったため野球にはまったくといって良いほど無関心であった。もちろん「日曜日」という大事な休日を野球のコーチとして参加する、そんな馬鹿げた考えなど皆無であった。
 それでも毎週日曜日に朝から息子は練習に出かけていった。当時、息子の練習に付いて行ってくれていたのは自分の義理の弟であった。しばらく息子の父親は義理の弟と思われていたらしい。
 ある日の日曜、娘と買い物をするため出かける途中、何気なく学校のグランドを覗いてみると野球の練習をしているはずの子供達がサッカーをやっているではないか。娘との買い物を終え学校に行くと相変わらずサッカーの試合をやっていた。当時の大山ヘッドコーチに尋ねると、「冬場は足腰のトレーニングのため野球のボールは触らせず、こういった筋トレを中心として練習しているんです。」との答えが返ってきた。「これならばお手伝い出きるかも知れない」そう考えた自分は「大山さん、これなら自分もお手伝いできるかも知れません。」そう言って早速サッカーの試合に入れてもらった。子供からパスをもらったボールをシュートすると見事にゴールに2本吸い込まれていった。
 それからはサッカーに魅せられて毎日曜日、練習に行ったことは言うまでも無い。
 そして3月になり春を迎えると本格的な野球の練習がはじまった。このころには野球というよりも指導者たちの心意気に惚れ若葉のコーチとして本格的に参画。当時は橋本代表をはじめ大山さんを筆頭に、クリーニング店の幸田さん、酒屋の五味さん、大館さん、化粧品屋の鈴木さん、酒屋の猪熊さん、工務店の嶋田さん、松井さんなどのお父さんコーチが指導に熱心にあたっていた。
 3月のある日曜、リーグ戦が北新宿グランドで行われた。
 当時の若葉はなかなかリーグ戦でも勝てず常に低迷していた。
 その時の低学年の監督は幸田さん、自分は子供は試合に出ないものの一緒にグランドについていくとわざわざ息子を代打で起用してくれた。息子の初打席・・・やってくれた・・・バッターボックスに入るやいなやキャッチャーのほうに向かって立つではないか、これには幸田監督も赤面してしまい、タイムを取り息子を反対に向かせた。
 このとき、自分ははじめて一コーチとしてではなく、父親として息子の指導に当たらなければ・・・そう心に誓った。それがその後の息子の少年野球の地獄を見るきっかけとなったのは言うまでも無い。
 その次の年、平成10年にはBチームの監督に就任。不安を抱きながらも自分らしい采配と指導をしようと心がけようと思った。
 そしてその年のある日コーチ会が開かれ若葉から西新宿ヤンキースにチーム名を代えよう、という提案が上がった。誰も反対する者はおらず決定。マークだけをWからNYに変更。チーム名は強そうになったが弱小チームは相変わらずであった。夏が近づき合宿の話し合いがもたれた。去年は西新宿の会館で合宿をやったそうで今年はどこか遠征に行きたい、ということで前述した鈴木さんの親戚の方が営んでいる御岳山の宿で3日間の合宿が行われることになった。
 はじめての合宿、2年生の息子も2年生としてひとりで参加。子供達も引率の大人たちもはじめての経験であり多少の不安もあったが、けが人も出ず無事に3日間を終了した。
平成11年も引き続き監督としてBチームの監督を就任、コーチには松村さん、島上さん、木村さんと野球を知っている指導者がいたので大分助けてもらった記憶がある。Aには岩下さん(兄)がコーチとして入部。
またこの年にはユニフォームも新調。胸には大きくYANKEESと書かれ帽子も白から黒に変わった。ちょうど連盟の開会式もあり各チームや連盟の役員からも評判が良くデザインした本人としては安堵の気持ちで一杯だった。
 この頃から連盟の試合、リーグ戦以外にも対外試合も増えて文京区主催のオレンジボール大会などにも参加させてもらえるようになった。
 夏も7月30日から8月1日まで御岳山に合宿。この年は山の上でも昼間はとても暑く、練習のメニューをキッチリとこなせなかった。この合宿を機会に鵜野さん、井ノ下さんがお父さんコーチとして参加してくれることになった。
 そして9月。秋の連盟の大会ではベスト8入り、記憶の中では過去の中での一番の好成績であった。1試合目29:1、2試合目は28:0と恐ろしい試合をしてくれた。
 平成12年、息子は高学年のチームに上がったがあえて息子と距離を置くためにBに残留する。
 そう、一緒に行動をともにした4年間、練習が終わり家に帰ると息子に罵声を浴びせていた。その都度「監督として息子をこんなに怒っちゃいけない、本人だってなかなか野球が上手くなれないこと気づいているはずだ、萎縮させるのが監督としての役目ではない」そう思いながらもその立場と口調は父親になっていた。
 この年から夏の合宿は河口湖に場所を移した。ここも昼間もさほど暑くは無く、河口湖の湖上祭の花火なども堪能した。
 平成13年は息子が最高学年ということもありAの監督に就任。Bには松村さんが監督に就任した。岩下さん、白川さんもお父さんコーチとして入部した。
 平成13年は1月から中野区交流大会、2月にはナガセケンコー杯、YYカップ、そしてわかわし杯など公式戦にも参加するようになった。戦績もまずまずといったところであった。
 秋の連盟の試合では3位決定戦で最終回裏、2:2の同点でツーアウト満塁。バッターボックスには5番の息子。最後のバッターとしてネクストバッターサークルにいた息子を呼び、耳元で「男になって帰って来い、ヒーローになって帰って来い」そう呟いた。息子は自信ありげな眼差しで無言で頷きバッターボックスに向かった。ワンストライクワンボールのあとの3球目。ど真ん中のストライクをショートへ痛烈な打球。ショートが弾き、見事なサヨナラ逆転勝利。
 この時ほど息子と6年間野球を続けてきて良かった、そう心の底から感じた事は無かった。本来ならばダッグアウトに戻ってきた彼を思い切り出抱きしめてあげたかった。でもそれが出来ないのが監督と監督の息子。それを息子も感じ取っていたようであった。結果この年はAチームBチームアベックで上部大会の4区大会に出場。Aチームは残念ながら1試合目で敗退したがなんとBチームは準優勝に輝く。晴れ晴れしい平成13年の秋を閉じた。
 そして12月、息子は卒団、新たな体制が始まろうとしていた・・・
と同時に何を思ったか、自分はこれまでの2年間書きつづけてきた西新宿ヤンキースニュースレター「LIEN」の執筆活動を休止した。書きつづける意味、読み手側の受け止め方、それがわからず、ふと挫折感を覚えたからだ。
 平成14年、自分はまたBチームの監督に出戻りとなった。Aは松村さんが監督として上がった。この年、水木さんをはじめ多くのお父さんがコーチとして入部。
 そしてニュースレターは3ヶ月間を置いて執筆を再開した。書き続ける意味は相変わらず見つからなかったが、将来きっと自分の財産として残るだろう、そう感じたからである。
 この年Aチームは苦汁を強いられた年であった。これは後述する第四章をご覧いただきたい。
 またこの年は10月にブラックバージョンのユニフォームを新調、強いチーム作りの布石となるのか・・・
 結局この年はABともあまり振るわず。あえて特記するならば通年のリーグ戦の優勝のみといったところであった。

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